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人生には、「なんで自分だけがこんな目に・・」と思える不遇な出来事が、降りかかってくることがあります。

例えば会社でいえば、楽しみにしていた転属先で、高圧的な上司の部下として働くことになったときなど。
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高圧的な上司から、何十分も説教される、理不尽に怒鳴られる、人格を否定される暴言を吐かれる・・そんなことがもし会社で毎日のように続けば、心身はボロボロになってしまうことでしょう。

そして、「なんて自分は不運なんだ・・なんで自分だけ・・」と嘆いてしまうのは仕方のないことだと思います。

ただ、そういった不遇とも思える出来事は、後々になってみて振り返ってみると、人生の転機になっていたり、新しいことを発見する契機になりうるという考え方もできるかもしれません。

ちなみに私の場合は、何をやってもうまくいかず、人生が落ち込んだ時があったのですが、それを克服する方法を探すために、たくさん本を読みました。

それは少なからず今につながっていると後々になって振り返ってみるとそう思います。

思い通りにことが運ぶ、挫折も失敗もない順風満帆な人生は、一見すると理想的かもしれません。

穏やかで波風の立たない毎日、平和でほのぼのした日々、それは幸せなように映りがちです。

ただ、悪役のいないドラマが詰まらないように、不遇に思える出来事や事件が何も起きなければ、それはストーリーとしてはあまり面白みのないと言ってよいかもしれません。

挫折や失敗をしたり不遇と思える出来事が人生に降りかかってくるからこそ、そのストーリはドラマチックに輝いてくるのです。

そして、実際に、挫折や失敗、不遇な状況をきっかけに人生を好転させた人の事例も存在します。

ただ、残念ながら現実社会においては、その状況にめげてしまい人生をより悪化させていく人も多い感じもします。
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一体、挫折や失敗、不遇に思える環境から人生を好転させる人と、より転落していく人とでは考え方にどのような違いがあるのでしょうか?

私なりに友人や知り合いや自身の人生を分析してみて、思い当ったことがあります。

それは、不遇に思える状況に対して、単純に嘆くだけなのか、それともわずかでも感謝の気持ちを持つかの違いです。

挫折や失敗をしたとき、不遇な環境下にあるとき、その状況が不快であることは誰しも同じだと思います。問題はその後の捉え方です。

「俺は運がなさすぎる」と単にふて腐れてしまうか、それとも「あのようなことがあったから、○○を学べた。△△に気づけた。」と感謝の気持ちを持つかの違いです。

前者の場合、負のスパイラルが起きて、そこから抜け出せない状況がつづく可能性が高いと思います。

一方で後者の場合、ひょんなことから人生は好転していった事例が多く見受けられます。


そう考えたとき、どんなに不遇と思える出来事があっても、ふと立ち止まって、「この状況に感謝の気持ちを持つことはできないか?」と考えることが大切だと思います。

挫折や失敗、不遇な状況を嘆いて終わりではなく、そのなかに感謝できうるポイントはないか探してみる。

半ば無理やりでもこじつけでもいいから探してみる。それが重要なのです。

例えば、駅まで走ってあと寸前のところで電車に乗り遅れてしまったとしましょう。次の電車は30分も後です。そのとき、どのように考えるでしょうか?

「俺は運が悪すぎる。30分も損した」と考えるか、それとも「乗り遅れて良かった。余裕を持って家をでなければいけないことを学べた。

それに見上げた空の美しさに気づけた。乗り遅れて遅れて良かった!」と思うかです。

自分にとって嫌に思える人間に対しても同じことです。

「奴とさえ会わなければ、自分はもっと良い人生を歩めたのに」と誰かを一生恨みながら暮らすのか、それとも、「奴と会ったお蔭で自分はこんな道を見つけられた。ありがとう!」と感謝の気持ちを持つかの違いです。

前者と後者では、その後の人生に大きな違いが生まれてくると思います。



人生にはさまざまな試練があります。努力をしても思い通りにいかないこともあるでしょう。
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ただ、そこで感じる心の悩みは、視点を少し変えるだけで解消してしまうこともあるものです。 長いスパンで見たとき、その結果だからこそかえって良かったということも少なくないものです。私たちは人生に与えられた試練を通して試行錯誤しながら魂を磨き成長していくことができればよいものです。やってくるさまざまな出来事のなかに、ひとつでも多くの感動を探しながら喜びを味わっていくこと、そして他者に優しさや希望の光を与え自他ともに幸せになっていくこと。それが生きる意味であると思います。
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